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分身さん行ってらっしゃい

2012/12/14(Fri) 13:30 | Edit
ノート

だれかが書いた文章を読むことって、
一時的にそのだれかに成り変わることじゃないか。

ある特定の作家さんの小説を
集中的に読んでいるとき、
小説を読んでいない時のじぶんの思考が
小説の文体になってしまうことって
わりとあるあるだと思う。
そりゃそうだと思う。
小説を読んでいるときって、
集中する。没入する。感情移入する。
そしてそこにある世界の内側から想像する。
だから小説を読んでいないときはある意味で、
そこにある世界の内側から
われわれの生きる現実の世界を想像している
状態になっているのではないか。
こっちに居て向こう側を想像しているんじゃなく、
向こう側からこっちを想像している状態。

小説で例えましたけど、
ある程度パワーのある文章って
それが論文であっても批評であっても
ツイートであってもブログであっても、
読者を引き込んでしまうと思う。
執筆者の意志や思想に
自分のあたまが塗り替えられてしまうと思う。
書かれている内容の問題ではない。
書かれている内容を、
読者として理解するのではない。
読者はそれを読んでいるとき、
いつのまにかそれが自分の考えたことだと
錯覚する。
自分が執筆者になっている。
自分が体験したことだと信じている。
別の自分になっている。

のではないでしょうか。
でもきっと、文章を読む楽しみって、
そういう部分なのじゃないかなあ。
とも思う。

別の人間になれる。
別の世界に行ける。
別の見方ができる。

そういう快感があるのだと思う。

質の良い文章を
大量にあたまに流しこむ。

すると、
自分の一部がたしかにその文章の執筆者や
その文章そのものになる感覚がある。

まあ要は、
素晴らしい文章にはつよい影響を受ける、
というそれだけの話なのだけど、
それが、自分を塗り替える行為だという
言い方をすると愉快だなあと。

で、
思い出したけど、
まだブログが無かったころ。
ネットで文章書くってなると
だいたい自主ホームページを立ち上げないと
いけなかったころ。
俗にテキストサイトという、
文章主体のホームページが跳梁跋扈していた。
ネットは広大で
ぼくが見てたものは全体の何万分の1なのかは
わからないけど、
その中で「俺とパンダ」というサイトは
当時あったテキストサイトの中で最高峰なのではないかと思う。
日常をテーマに、独特の切り口で書かれた文章は、
何度読んでも声だして笑った。
というか文体がかなり独創的だった。
思春期のころ、めちゃめちゃ読んでたので、
現在のぼくの一部は間違いなく
「俺とパンダ」で出来ている。
ぼくの目線も考え方も文章も、
「俺とパンダ」で出来ている。
と言っても過言ではない。

文章を読むと、
頭のなかに執筆者の分身が生まれる。

こう、まあ、つまり、
ひとの目に触れる文章を書くという行為は
めちゃめちゃクリエイティブなのではないかということだ。
いや、文章そのものがクリエイティブという意味ではなく、
読者の頭の中に別の何かを生み出し、
そのまま居座らせてしまえるという意味で。

居座った何か、例えば執筆者の分身は、
読者のもともとの意識を浸蝕し、
執筆者の意識に近い別のものに
変えてしまうかも知れない。
どれくらい執筆者に近いかはわからないが。
もしかしたら限りなく近いかもしれない。

例えば、
ぼくのブログの文章も、
そういうパワーがあったとして、
もしも全てのエントリを読んでくれた人がいたとして、
そんなあなたは、
ぼくですか?



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2013/01/23 16:26 [ 編集]
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